神様からのプレゼント〜最初の宝物〜

 

1990年22歳の夏、神様からのプレゼントを授かった。

まだ結婚していたわけではないが、高校3年の時に片思いが実って(!?)付き合っていた彼(だんな様)と同棲していた。

東京都板橋区・・・東武東上線の大山駅徒歩5〜6分の所にあった1Kのアパート。

つい先日2人で見に行ってみた。

懐かしい我が家は、10年前の姿そのままに残っていた。

 

妊娠検査薬では確認したものの、やはりちゃんとした診断をしてもらわなければならない。

当時、夜間の大学に通いながら昼間は会社員だった彼に代わって、私の会社の友達が付き添ってくれた。

その彼女は、悲しい選択を迫られたケースに何度か付き添ったようだ。

今回の私のケースもそうだと思いこんでいたらしい。

親友と呼べるほど仲が良かったわけでもないのに、

「そんなとこ、1人で行かせるわけにはいかないよ」

と、半ば張り切って付き添ってくれた。

結婚、出産となればすぐ会社を辞めてしまえるような財政状況ではない。

大きな病院では検診を受けるのも半日ぐらい軽くかかる。

会社勤めを続けながら通える病院を・・・そう考えたらアパートの近所の産婦人科病院しかなかった。

その病院ではお腹の大きな妊婦さんに、ほとんど遭遇することがなかった。

後で考えるに、出産に至る妊婦さんが通う病院ではなかったようだ。

最初の検診の時も、おじいちゃん院長のご夫人と見られる看護婦さんは

「どうされますか!?」

と、私に質問した。すごく事務的だった。

しかし、始めから気持ちは決まっていたし、そのまま病院を代えることなく通い続けると

壊れ物を扱うように対応まで丁寧になった。

私にも、里帰り出産だからここで産むわけではない・・・そんな変な開き直りがあったのかもしれない。

 

お互いの両親は、あっさり受け入れてくれた。

その時点で4年以上のお付き合いであったこと。

同棲も暗黙の了解のもとだったこと。

それに何よりだんな様は次男で、お兄さまも出来ちゃった結婚だったこと。

・・・お兄さまの時は、それはそれは大変な騒ぎとなったようですが・・・。

そうなると、お腹が目立つ前に式をと考えるのが一般的(田舎ならでは!?)。

でも、妊娠と同時にお腹が目立ってきてしまった私を前に、母が

「産んで身体を元に戻してからじゃないと、ドレスは着れないわねぇ」

と、何気に言い放ってくれたおかげで、だんな様のご両親も納得してくれた。

 

入籍は私の誕生日、9月15日。

祝日なので、万が一婚姻届に不備があるとその日に入籍できない。

前もって区役所に通い、内容に不備がないことを再三確認して当日に備えた。

2人で区役所の休日窓口の守衛のおじさんのような人に提出。

ほんとに大丈夫なのかと、気が抜けるほど事務的な作業だった。

そしてその日は、「東京プリンスホテル」に宿泊。

青山でフランス料理を食べた。

その時の私たちには精一杯の記念日。

でも、一生忘れることはない。

 

会社は年内で退社。

2月の始めに実家に戻るまで、赤ちゃんが産まれてきたらしばらく行けないとわがまま言い放題、

映画やコンサート、外食にと歩き回った。

今思えば、よくそんな余裕があったものだと思う。

お腹に赤ちゃんを授かると、胎教にとクラシックを聴いたりする人が多い。

私はかなり違った。

私が好きなものを聴いて、楽しんでいることが赤ちゃんにも良い胎教だと言い張った。

クラシックも嫌いじゃないし状況にもよるけど、ずっと聴いてると飽きてきてイライラしちゃう。

イライラするよりは、楽しく鼻歌でも歌ってる方がいいよねぇ。

 

結局、2月に里帰りするまで通っていた産婦人科では、特別な指導はなかった。

何より、もともと体重の増加には敏感な私。

いくら気をつけていても増え続ける体重に

「今度こそは怒られるかも・・・」

と、不安になりつつ診察を受けても何も言われることはなかった。

それがいけなかったのだろう。

里帰り先で通うことになっていた産婦人科では、2度目で転院させられてしまった。

妊娠中毒症である。

大きな病院じゃないと、何かあったときに対応出来ないから・・・。

紹介された総合病院では、診察を受けてそのまま入院。予定日の1週間前だった。

すぐに入院させる病院と聞いていたので準備はしていたが、先生の説明がひどかった。

「ここまでひどくなったのは、今まで行っていた医者の責任だ。足が腐った大根のようにむくんでいる。

ここまできたら、出産の時に大量の出血があっても不思議はない。

赤ちゃんだけじゃなくて、あなたも危険だよ。」

出産を直前に控えた妊婦を脅かしてどうするのか・・・そう思わざるを得ないような強い口調だった。

入院と同時にベット脇にポータブルトイレが用意され、6人部屋で用を済まさなければならない。

トイレまで歩くことも禁じられた。

産科のお部屋がいっぱいで、婦人科のお部屋に入ったが、そこはおばあちゃんばかり。

もう、吐き気がするくらい暖房で部屋はむんむんしている。

幸いにも窓際のベットだったので、こっそり窓を開けて空気を吸っていた。

ベットから歩くことも許されない生活5日目、突然診察に呼ばれ何かをされたようだ。

全て、事後報告。

なんの説明もなく、私の体の中にはバルーンが入れられた。

お医者様からの説明ではなく、看護婦さんが

「明日の朝には陣痛が来るようにしましたからねぇ」

・・・。

その日は木曜日。週末が休みになる先生に合わせて、金曜日は出産ラッシュとなるらしい。

しかし看護婦さんの予告を裏切り、私の陣痛はその日の夜10時ごろ始まってしまった。

するとなんたることか、先生がいないから朝まで陣痛を遅らせるとのこと。

片手に陣痛を遅らせる点滴、反対の手には子宮口を開かせる点滴をしながら

決して楽にはならない陣痛と一晩格闘することになる。

永遠に続くかと思えた夜が明け、分娩台に上がってからは早かった。

首にへその緒を一巻きしていたが、吸引直前で自然に出産。

3030g、念願の女の子。

が、やはり妊娠中毒症の症状である、出産時の大量出血のために輸血をした。

お産を終えた新米ママ達は、にこやかに病室に戻るものだが、私は血の気もなかったらしい。

次の日、ようやく肌がピンク色になった私に、同室の人たちが

「元気になったね!」

と、声をかけてくれた。

 

評判を聞いて選んだ病院に拒否され、考える時間もなく入院した病院。

田舎ゆえに選択肢もない。

私の場合、全て順調だったから良かったものの、退院後「無事で良かったねぇ」と言われた。

私と同じ様なケースで、母子共に亡くなった方もいるとか・・・。

絶句である。

その後しばらくしてその先生は病院から消えていた。

 

もうかなり前のことなので、出産の苦しみは忘れてしまった。

それくらい子供って宝物なんだなぁと思う。

その新しい命の誕生の瞬間を迎える病院は、慎重に慎重に。。。

 

1991年3月15日、我が家に最初の天使が舞い降りた。


管理人のお部屋へ

ゆんたいむ ゆんたいむ